コブラツイストに愛をこめて 実況アナが見たプロレスの不思議な世界


コブラとしての地位をカナダで築く中で、初代タイガーマスク引退によってジュニアヘビー級のニューヒーローを輩出するために、新日本プロレスはジョージをコブラとして1983年10月末に緊急帰国をすることになった。

「会社の命令よ。自分としては素顔でもマスクマンでもどちらでもよかったけど。まだカルガリーにいたかったよ。ちょうどヒートしてきてさ、一番いい時だったからね」

1983年11月3日蔵前国技館で行われたザ・コブラの日本デビュー戦はタイガーがかつて保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦。
対戦相手のザ・バンビートはライバルのデイビーボーイ・スミスだった。
入場から「ニューヒーロー誕生」の演出から会社からの期待が伺えた。
スモークが炊かれた花道を複数のマスクをつけたセコンドが担ぐ神輿の上にコブラが乗って姿を現した。
城のタキシード風のジャケットを身にまとったコブラはトップロープに乗ってからバック宙してド派手に入場してきた。
だが、試合は思わぬ方向へ…。

試合前にバンピートが自らマスクを取ってコブラに襲い掛かると、期せずしてキッド・コール!スミスはキッドの従兄弟だけに顔と体型が似ていたため、ファンは勘違いしたのだ。こうなると誰もが、この試合をタイガーマスクVSダイナマイト・キッドに重ねてしまう。これがコブラにとって悲劇となった。今、改めてVTRを検証してみると、モンキーフリップを回転して着地してのドロップキック、トップロープに飛び乗ってのサマーソルト…と、コブラの動きは悪くない。だが、トップロープ越しのトぺ・スイシーダをあっさりかわされて豪快に自爆すると大爆笑が発生。これがコブラの致命傷になってしまった。いくら運動神経がよくても188cm 99kgのコブラが73cm 90kgのタイガーマスクと同じ動きを求められたら無理がある。しなやかで緻密だったタイガーマスクと比べると大味で粗雑に見えるのも仕方のないことだ。だが、タイガーマスクの幻影を求めるファンにとってコブラは完全に期待外れだったのである。
【プロレス覆面レスラーの正体/双葉社】

ニューヒーロー誕生と思われたが、これは"しくじり"プロレスラー誕生を意味していた。

後に新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーはコブラについてこのようなことを語っている。

「コブラは俺のデビュー戦よりできているし、ものすごいカッコいいんですよ。だから会社もファンも無理にコブラをタイガーマスクの後継者として見ることなく、動けるヘビー級戦士という感じで見れた状況は違っていたのではないだろうか」

周囲のコブラに対して乗れない状況下でも、当本人は…。

「別に私は二番煎じのつもりもないし、プレッシャーも全然なかった。佐山さんの仕事は佐山さんの仕事、私の仕事は私の仕事だから」

ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、小林邦昭といったライバル達は全日本プロレスに転出する中でライバルにも恵まれなかったのも痛かった。
同世代のヒロ斎藤と抗争を繰り広げた時期もあったが、そこまでブレイクすることはなかった。

だからといってコブラのムーブはタイガーに負けて劣らないものがあった。
ジャーマン・スープレックス・ホールドやタイガー・スープレックス・ホールドといったスープレックスは高角度で美しく、ドロップキックはタイガーよりも打点は高かった。また、メキシコ仕込みのセントーン、プランチャは独特の味があった。フライング・ニールキックやローリング・ソバット、コーナーに振り向きざまにセカンドロープに飛び乗り、反転するように相手に胸板に稲妻レッグラリアットの要領でキックを放つ「スコードロン・サンダー」というオリジナル技まで持っていた。
だが、それらの四次元殺法や持ち前の運動神経や身体能力も、試合運びの粗さと繋ぎ下手な部分が仇となり、これらのムーブの凄さが伝わらなかったのではないだろうか。華麗な技を多用するから天才なのではないし、プロレスセンスがあるわけではない。ジョージのプロレスには"説得力"がなかった。

その要因はもしかしたら紙一重なのかもしれない。
だが、その紙一重が大きな"しくじり"を生むのだ。

WWFジュニアヘビー級王座やNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するもどこまでもコブラはヒーローにはなれなかった。

1986年2月6日の前国技館にて越中詩郎との初代IWGPジュニアヘビー級王座決定リーグ戦・決勝戦に敗れ、さらに後輩のUWFの高田延彦(当時は高田信彦)が保持するIWGPジュニア王座に挑戦した際に、高田に結果は引き分けるも、内容では圧倒された。

時代はどこまでコブラに冷たく、見放し続けた。
高田戦を最後にコブラはマスクを脱ぎ、カナダへ渡った。
1986年7月にヘビー級に転向し、素顔のジョージ高野となって凱旋した。

ヘビー級となったジョージの体重は最大で115kgに増加するも、動きは落ちることはなかった。
だが、一度しくじったレスラー人生はなかなか軌道修正はできない。
1年、2年と浮上することなく、前座戦線を彷徨うジョージだったが、スーパー・ストロング・マシンとのコンビ「烈風隊」でタッグ戦線に参入し、1989年3月16日に長州力&,マサ斎藤を破り、第9代IWGPタッグ王座を獲得した。
この頃がジョージにとって最も輝いた時期なのかもしれない。

1990年4月1日、ジョージは新日本プロレスからメガネスーパーが運営する新団体SWSに移籍する。一説によるとメガネスーパーとの繋がりが強かったドン荒川と仲が良かったジョージが荒川の誘いと大金につられてこの移籍を決断したとも…。

当時のジョージはどこか新日本で燻っていた。
長州力、藤波辰爾といったトップレスラーと勢いに乗る後輩・闘魂三銃士の狭間でジョージは"中二階"で甘んじていた。新日本のエース候補やスター候補と呼ばれていた男にIWGPヘビー級挑戦のチャンスは遂に一度も回ってこなかった。

大相撲のような部屋制度を設けていたSWSでジョージは「パライストラ」という部屋の道場主(エース)となった。
立ち位置としてはレボリューションの天龍源一郎、道場・檄の谷津嘉章と共にSWSのトップ3という大役だった。

SWSではタッグながら天龍からフォールを奪い、後にWWE世界王者となるブレット・ハートをシングルマッチで破るなど奮闘するも、やはりしくじった運命を変えるまでに至らない。
高野俊二との高野兄弟でSWSタッグ王座を獲得するも、1992年6月にSWSは内部分裂、解散の末路を辿っていった。

その後、ジョージはさらに迷走していく。
ケンドー・ナガサキとの新団体NOWは、旗揚げ戦後に俊二と共に離脱し、PWCという団体を旗揚げする。
この頃のジョージについて、当時新人レスラーだった保坂秀樹はこう語る。

「ジョージさんは基礎練習が凄く好きなんですよ。朝4時くらいに道場に現れて練習するんですけど。まだ道場で練習するならわかるんですけど、道場の前に空き地があって、石とかでボコボコなんですよね。そこにビニールシートを広げて"極め合いするぞ!"と。石でボコボコでヒザもつけないようなところでやるんですけど。道場にリングがあるんですよ?(笑)。たぶんですけど、あの頃はU系全盛だったから、ジョージさん、UWFに憧れていたと思うんですよ。ジョージさん、格闘技系のスタイルが好きだったんですよね。だからって空き地で練習する意味がわからないですけど(笑)。ジョージさんは"霊が見える!" 、"これは何か取り憑かれてる……"とか真顔で言いだしたりしますから。あと俊二さんといつもケンカするんですよ。考え方の違いなんですかね。ボクが知るかぎり兄弟の仲は良くなかったですね。最後は安達さん(ミスター・ヒト)が包丁を持ち出して"ケンカはやめろ!"って止めるのがいつもの光景で」

俊二と仲違いし、PWCを離脱したジョージは妻の実家がある北海道釧路市にFSRという団体に設立し、他のインディー団体にたびたび参戦する。
FSRは活動停止、福岡県に移住したジョージはそれでもリングに上がり続けた。
静観で筋肉質な肉体はいつの間にか贅肉に覆われたカッコよくない中年太りな肉体へと変貌していた。
時代と共にジョージの肉体は衰えていった。

その後、橋本真也が旗揚げしたゼロワンの初期に参戦したり、古巣・新日本にゲスト参戦するも、かつての輝きを放つことはなかった。

仕事も転職していた。
引退はしていないものの、外壁の施工工事の仕事や電柱を埋める仕事をしたりと仕事も彷徨った。NPO法人を設立したり、システム会社の重役になったり…。またアントニオ猪木が設立したIGFに関わることもあった。現在はどこで何をしているのか…。

「やっぱりプロレスは継承をされるものだから。今でも私はザ・コブラを継承する人間を作りたいと思っている。私はまだ引退発表をしていないし、弟と何かをしたい気持ちはある」

翻弄され、放浪のレスラー人生を送ることになったジョージ高野には果たして栄光などあったのだろうか。素材は天才、いや逸材級だった。しかし、それに見合った活躍も実績も残すことはできなかった。それもすべてにおいて紙一重の部分だった。もしかしたら、紙一重の部分が巧く合致していたら、ジョージは時代を味方にし、日本プロレス界を代表するスーパースターとして語り継がれていたのかもしれない。
だが一度しくじった歯車は止まることなく、転落していった。
それがジョージ高野という男のレスラー人生だった。

2004年に発売され、NHKアテネ五輪中継の公式テーマソングとして大ヒットしたゆずの「栄光の架橋」にはこんな歌詞がある。

悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
(中略)
いくつもの日々を越えて
辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと…
終わらないその旅へと
君の心へ続く架橋へと…
【ゆず/栄光の架橋 2004年】

光り輝くべき男には栄光なんてなかった。
それでもジョージ高野は我々の心に残り続ける伝説のプロレスラーだった。

「悲しみや苦しみの先に、それぞれの光がある」

人々の心へ続く架橋をかけることができるのは栄光を摑んだ者だけではないのかもしれない。

栄光なき逸材に、乾杯!!


コブラ~ アントーニオ本多 vs サンティーノ・マレラSpecial ..

ジョージ高野は大相撲廃業後、1976年に新日本プロレスに入門、1977年に佐山聡相手にデビューを果たし、特撮テレビドラマ『プロレスの星 アステカイザー』に主人公のライバル役として出演したが、菅原文太の誘いを受けて芸能界入りを目指すも、プロレスへの情熱は断ち切れず、新日本プロレスに復帰、アントニオ猪木に可愛がられていたこともあって、猪木を大きく尊敬していた。

1983年からジョージはザ・コブラに変身し、将軍KYワカマツをマネージャーにしてヒールになると、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスと抗争を展開、ブルース・ハートを破り英連邦ヘビー級王座を奪取していた。

ザ・コブラのプロフィール・画像・写真 | WEBザテレビジョン

8月に猪木、藤波辰己ら新日本勢が遠征に来ると、コブラは小林邦昭と組んでスミス、ブレット・ハート組と対戦、華麗な空中殺法を披露する。、この模様はワールドプロレスリングでも放送されたが、高野も新日本プロレスがとんでもない事態に陥っていることを知る由もなかった。

テレビ朝日が放送していた「ワールドプロレスリング」は初代タイガーマスクが引退しても、猪木率いる正規軍と長州力率いる維新軍団との抗争を軸にしたことで視聴率、初代タイガーマスクの抜けた穴を埋めていたが、初代タイガーマスクの頃とは違って若干視聴率も下がっていたこともあってテコ入れを迫られていた。

「P ザ コブラ」のアイデア 32 件 | コブラ, レスラー, プロレス

そこで目を付けたのはコブラで新日本はポスト・タイガーマスクとしてコブラを売り出すことになり、ジョージに帰国命令を出すが、カルガリーでの居心地の良さもあって本人は帰国を辞退するがm尊敬する猪木の説得もあって世話になった俊二を置き去りにして帰国、帰国時には成田空港でマスク姿のコブラが登場、インタビュアーが突撃取材をするも、コブラはノーコメントであくまで謎のマスクマンで通したが、それだけ新日本プロレスだけでなく、テレビ朝日もコブラに期待をかけるも、一部のファンは正体はジョージであることに気づいていた。

コブラの相手はこちらも謎のマスクマンであるザ・バンピートが務めることになったが、コブラはタイガーマスクやマスカラスのマスクを被った若手選手らが担ぐ白煙を噴く神輿に乗って、白いタキシードを身に纏い登場、コーナー昇ったコブラはバク宙を披露するも、すぐさまバンピートがコブラを襲撃する。
バンビ―トは突如マスクを脱いで素顔を晒すと、ファンはダイナマイト・キッドだと思ってキッドコールを贈ったが、正体はキッドに似ていたスミスで、スミスはコブラはタキシードを脱いでいないコブラを場外へ追いやってボディースラムで叩きつけ、リングに戻ろうとするコブラにロープ越しのブレーンバスター、リフトアップスラムで場外に放り投げるなどコブラを徹底的に痛めつける。

悲劇のマスクマン「ザ・コブラ」〜1983-86 新日本プロレス ジョージ高野

改めて試合開始のゴングが鳴らされると、館内はコブラコールではなく「高野コール」が起きていた。そして肝心の試合となると期待されたコブラの空中戦は封じられ、グラウンド中心の攻防に終始、コブラが空中殺法を狙うと、スミスは受けようとしないなどの行為が目立ち、コブラの良さを引き出さずに自身の良さばかりをアピールしたため、ジュニアらしい華麗な空中戦も攻防はなく、さすがの館内も野次が飛び始める。
それでもコブラはドロップキックでスミスを場外に追いやると、ノータッチトペスイシーダを発射するが、スミスはかわして鉄柵へ直撃しコブラは両膝を負傷、この時にコブラは膝の半月板が割れたという。スミスは場外パイルドライバーで突き刺すが、コブラも鉄柱攻撃から同じ技でやり返し、リングに戻ってスミスはミサイルキックを狙うと、コブラも下からのドロップキックで迎撃、コブラは痛い両膝でのダブルニーからフライングラリアットを狙うが、タイミングが合わずに相打ちとなって失敗してしまう。しかしスミスのセントーンをかわしたコブラはフライング・ラリアットを決めて3カウントを奪い勝利も、フィニッシュの技にはインパクトに欠けるだけでなく技の失敗も目立って、新日本やテレビ朝日の期待を大きく裏切る結果となってしまい、肝心の試合の模様は試合途中からトペの失敗まではダイジェストで放送され、放送されたのは終盤でのフィニッシュシーンでの攻防だけだった。

レスラーとしての活動を「私は常にプロレスラーですから。いつもコンディションは整えています」と断言した。その一方で「建築関係の仕事をしています」と明かし、現在の住まいを「この前は北海道とか」と不明な部分はあったが、仕事については「北海道から九州までいろんなところに行っています」と充実している日々をうかがわせていた。


伝説のプロレスラー ザ・コブラ | mogura2号 のブログ

その後コブラは割れた膝は手術せずにスクワットなどで下半身を強化して1984年に復帰したが、現在も膝は割れたままだという。コブラは「新春黄金シリーズ」に開催された「WWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」にエントリー、公式戦では初代タイガーのライバルであるキッド、初代ブラックタイガーを破る殊勲を挙げたが、優勝決定戦はキッド、スミスと三つ巴で争われ、三つ巴戦はスミスがコブラと引き分け、キッドに敗れて脱落し、優勝はコブラとキッドの間で争われたが、キッドがバックドロップホールドでコブラを破り優勝、コブラは初黒星を喫した。

燃えるオリーブオイルアントーニオ本多と、ごんぎつね(*1)VSコブラという日米ドリームマッチを実現させた。 ..

試合後、コブラはいつ以来の試合かと問われると「長い時間が経っていますね。確かゼロワンの福岡のボウリング場があるところ以来」と振り返り、2002年8月24日、ゼロワンの博多スターレーン大会以来、約16年ぶりの復活だったことを明かした。久々のリングに「尊敬する先輩みなさんのリングなんで私もとても光栄に感じております。これからの課題として、藤波さん、そして、ここのリングに参加する方々が努力してさらにお客さんをたくさん呼べる団体になっていただきたい。そのために私もできる限り先輩のお役に立てれば光栄かなと考えております」とレスラーとは思えない丁寧な口調で言葉をかみしめていた。

【プロレス-今日は何の日】1984年2.9 大阪 小林邦明VSザ・コブラ!

コブラの正体はカルガリーマットで修行していたジョージ高野で、コブラはヒールのマスクマンとしてダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスらと抗争を展開していた。

【プロレス-今日は何の日】 1984年2.9 大阪府立体育会館 小林邦明 VS ザ・コブラ NWAジュニア王座.

ファンの声援に「うれしかったですね。私はプロレスしかできない男ですから。すべて人生、プロレスにかけてきたんで。こうしてまた、藤波さんのリングで立たせてもらうこと、スタッフの皆さんに感謝しますし、先輩方はじめご来場のファンのみなさまにこの場を借りて御礼を申し上げたいと思っております。次の課題としてさらにご声援いただけるように、残り成長していい試合できるように頑張っていきたいと思います」と意気込み「課題は山積してますので、特に今の業界は以前の昭和プロレスの黄金時代のように、藤波さん、先輩方通じて時代をまた迎えられるように、みなさんで一丸となってがんばって、お互いの目標の課題をひとつひとつクリアして結果が出るように頑張っていきたいと思います」とまだまだ現役を続ける考えも披露していた。

銚子電鉄:走行中車内でコブラツイスト プロレス興行挑戦 | 毎日新聞

後年、ジョージによると「(トペ失敗)はそのまま放送して欲しかったですね、そうすればタイガーマスクと比較がわかると思うんですよ、佐山さんが新日本を辞めたばかりで、コブラはその後釜に期待されていたことは知っていたけど、だからこそあの失敗は放送して欲しかった。佐山タイガーは全部成功するキャラクター、でもコブラは成功しないみたいな。再起するキャラクターなんですよ、私はコブラのカラーを出したかったんですよ、コブラはどこが違うかって言ったら猪木さんのファイティングスピリット、決して諦めない気持ちと動きで見せるところです」と語ったとおり、初代タイガーは完成品であるに対し、コブラは未完成、だからこそ何度も敗れて失敗しても、歯を食いしばって立ち上がる闘志を見せるコブラをジョージは見せたかった。しかし新日本やテレビ朝日はタイガーマスクのようなキャラを期待していた。コブラがしくじった理由は本人の望んでいた方向と、新日本やテレビ朝日、またファンとの方向性の違いが原因だったからかもしれない。

覆面レスラー「ザ・コブラ」をGoogle検索したら衝撃の結果が

キッド、スミスが全日本プロレスへ移籍したため、コブラはブラック・タイガーとMSGで王座決定戦を行って破り、初代タイガーマスクに次ぐNWA、WWFジュニアの二冠王となり、ヒロ斎藤と抗争を繰り広げるも、コブラの試合はテレビマッチで放送される機会もなく、ヒロとの抗争もテレビすら放送しなかった。ヒロも新日本プロレスを離脱してしまい、新日本プロレスもWWFと提携を解消したことで両王座は返上してしまった。それに伴ってIWGPジュニアヘビー級王座が新設、王座決定リーグ戦が行われ、コブラは優勝決定戦に進出して全日本プロレスから移籍した越中詩郎と対戦したが、スペース・フライング・タイガー・ドロップは飛距離が足りずに失敗し、ダイビングボディープレスも剣山で迎撃されたコブラは越中のジャーマンスープレックスホールドに敗れ王座奪取に失敗する。また越中がUWFから出戻っていた髙田延彦と抗争に入ったことで、ジュニアの中心が二人に代わってしまい、コブラは越中を破って2代目王者となった高田伸彦と対戦したが、両者リングアウトで王座は奪えず、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消え、ヘビー級へと転向した高野がリングに登場した。

元プロレスラーのコブラツイスト解説#shorts #プロレス ..

素顔に戻った高野だったが、新日本プロレスは高野を売り出そうとしなかったため中堅で燻るようになるも、それには理由があって高野はコブラ時代からプライベートで度々問題を起こしており、新日本プロレスも高野をトップレスラーとして扱うのには不適格と判断したからだった。新日本プロレスは武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋の闘魂三銃士を売り出すことになると、高野もさすがに居場所を失うが、そこで若松市政から誘いを受けてSWSへ移籍を決意するも、そもそもそれは最初は俊二に来た話で高野が横取りしてしまったのだ。

海野(中央)にコブラツイストを決めるザック・セイバーJr.。右 · 海野 ..

ジョージ高野とザ・コブラ。2人とも味わい深い愛すべきプロレスラーだった。(記者コラム・福留 崇広)

70-80年代 プロレステーマ曲 LPレコード特集【コブラさん登場!】

アントンの得意技。試合中に何らかの理由でヒザを負傷→「もう戦えない。最後に徹夜して考えた創作昔話を聞いてくれないか?」→創作昔話『ごんぎつね』披露→呆気に取られている内に影絵のキツネの形にした手でサミングを叩き込む…というもの。ちなみに創作昔話のオチは大概下ネタである

今回は昭和プロレステーマ曲研究家のコブラさんをゲストにお招きして、懐かしのプロレスLPレコード(アルバム)について、語り合います!

(参考資料 双葉社「逆説のプロレスVol.17『取材拒否』新日本プロレスワールド コブラvsスミスは新日本プロレスワールドにて視聴できます)

海野翔太(右)をコブラツイストで攻めるザック・セイバーJr.(カメラ・今成 良輔)

昭和の新日本プロレスのジュニア戦線で活躍した覆面レスラー、ザ・コブラが復活した。新日時代は宿敵だったヒロ斉藤(56)とタッグを組んでブラック・タイガー、KENSO(43)と対戦。試合は斉藤がタイガーを抑え、勝利した。