――ザ・コブラは、新日本プロレスのジョージ高野さんが、海外遠征中の1983年夏にカナダのカルガリーで変身したマスクマンですね。 ..
その後コブラは割れた膝は手術せずにスクワットなどで下半身を強化して1984年に復帰したが、現在も膝は割れたままだという。コブラは「新春黄金シリーズ」に開催された「WWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」にエントリー、公式戦では初代タイガーのライバルであるキッド、初代ブラックタイガーを破る殊勲を挙げたが、優勝決定戦はキッド、スミスと三つ巴で争われ、三つ巴戦はスミスがコブラと引き分け、キッドに敗れて脱落し、優勝はコブラとキッドの間で争われたが、キッドがバックドロップホールドでコブラを破り優勝、コブラは初黒星を喫した。
コブラ~ アントーニオ本多 vs サンティーノ・マレラSpecial ..
ジョージ高野(ザ・コブラ)の試合情報をご紹介します。試合のチケット情報や関連画像、動画、記事など、様々な情報コンテンツをお届けします。
後年、ジョージによると「(トペ失敗)はそのまま放送して欲しかったですね、そうすればタイガーマスクと比較がわかると思うんですよ、佐山さんが新日本を辞めたばかりで、コブラはその後釜に期待されていたことは知っていたけど、だからこそあの失敗は放送して欲しかった。佐山タイガーは全部成功するキャラクター、でもコブラは成功しないみたいな。再起するキャラクターなんですよ、私はコブラのカラーを出したかったんですよ、コブラはどこが違うかって言ったら猪木さんのファイティングスピリット、決して諦めない気持ちと動きで見せるところです」と語ったとおり、初代タイガーは完成品であるに対し、コブラは未完成、だからこそ何度も敗れて失敗しても、歯を食いしばって立ち上がる闘志を見せるコブラをジョージは見せたかった。しかし新日本やテレビ朝日はタイガーマスクのようなキャラを期待していた。コブラがしくじった理由は本人の望んでいた方向と、新日本やテレビ朝日、またファンとの方向性の違いが原因だったからかもしれない。
ザ・コブラのプロフィール・画像・写真 | WEBザテレビジョン
コブラに目を付けた新日本はポスト・タイガーマスクとしてコブラを売り出すことになり、ジョージに帰国命令を出すが、カルガリーでの居心地の良さもあって本人は帰国を辞退。しかし尊敬する猪木の説得もあって帰国を決意、帰国時には成田空港でマスク姿のコブラが登場、インタビュアーが突撃取材をするも、コブラはノーコメントであくまで謎のマスクマンで通したが、それだけ新日本プロレスだけでなく、テレビ朝日もコブラに期待をかけていた。
この日の「ドラディション」では第4試合に昭和の新日本プロレスのジュニア戦線で活躍した覆面レスラー、ザ・コブラが復活した。新日時代は宿敵だったヒロ斉藤(56)とタッグを組んでブラック・タイガー、KENSO(43)と対戦。試合は斉藤がダイビングセントーンでタイガーを抑え、勝利した。コブラは1983年11月3日に新日本マットに出現。NWAとWWFのジュニア2冠に輝くなど85年6月まで斉藤、越中詩郎、高田延彦らと戦いを繰り広げた。
The Cobra ザ・コブラ | レスラー, マスクマン, プロレスラー
ジョージ高野(ジョージたかの / George Takano、1958年6月23日 - )は、日本のプロレスラー、元大相撲力士。本名:高野 讓治(たかの じょうじ)。福岡県北九州市出身。ザ・コブラ(The Cobra)のリングネームで覆面レスラーとしても活躍した。大相撲時代の四股名は高野(たかの)。プロレスラーの高野拳磁は弟、全日本プロレスに短期間在籍した高野直樹は従兄弟。
コブラの相手はこちらも謎のマスクマンであるザ・バンピートが務めることになったが、コブラはタイガーマスクやマスカラスのマスクを被った若手選手らが担ぐ白煙を噴く神輿に乗って、白いタキシードを身に纏い登場、コーナー昇ったコブラはバク宙を披露するも、すぐさまバンピートがコブラを襲撃、マスクを脱ぐと、ファンはダイナマイト・キッドだと思ってキッドコールを贈ったが、正体はキッドに似ていたスミスで、スミスはコブラはタキシードを脱いでいないコブラを場外へ追いやってボディースラムで叩きつけ、リングに戻ろうとするコブラにロープ越しのブレーンバスター、リフトアップスラムで場外に放り投げるなどコブラを徹底的に痛めつける。 改めて試合開始のゴングが鳴らされると、館内はコブラコールではなく「高野コール」が起きる。試合も期待されたコブラの空中戦は封じられ、グラウンド中心の攻防に終始、コブラが空中殺法を狙うと、スミスは受けようとしないなどの行為が目立ち、コブラの良さを引き出さずに自身の良さばかりをアピール、ジュニアらしい華麗な空中戦も攻防はなく、さすがの館内も野次が飛び始める。
【新日本プロレス 技図鑑】コブラツイスト / 成田 蓮 #shorts
レスラーとしての活動を「私は常にプロレスラーですから。いつもコンディションは整えています」と断言した。その一方で「建築関係の仕事をしています」と明かし、現在の住まいを「この前は北海道とか」と不明な部分はあったが、仕事については「北海道から九州までいろんなところに行っています」と充実している日々をうかがわせていた。
キッド、スミスが全日本プロレスへ移籍したため、コブラはブラック・タイガーとMSGで王座決定戦を行って破り、初代タイガーマスクに次ぐNWA、WWFジュニアの二冠王となり、ヒロ斎藤と抗争を繰り広げるも、コブラの試合はテレビマッチで放送される機会もなく、ヒロとの抗争もテレビすら放送しなかった。ヒロも新日本プロレスを離脱してしまい、新日本プロレスもWWFと提携を解消したことで両王座は返上してしまった。それに伴ってIWGPジュニアヘビー級王座が新設、王座決定リーグ戦が行われ、コブラは優勝決定戦に進出して全日本プロレスから移籍した越中詩郎と対戦したが、スペース・フライング・タイガー・ドロップは飛距離が足りずに失敗し、ダイビングボディープレスも剣山で迎撃されたコブラは越中のジャーマンスープレックスホールドに敗れ王座奪取に失敗する。また越中がUWFから出戻っていた髙田延彦と抗争に入ったことで、ジュニアの中心が二人に代わってしまい、コブラは越中を破って2代目王者となった高田伸彦と対戦したが、両者リングアウトで王座は奪えず、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消え、ヘビー級へと転向した高野がリングに登場した。
コブラツイストに愛をこめて 実況アナが見たプロレスの不思議な世界
コブラの正体はカルガリーマットで修行していたジョージ高野で、コブラはヒールのマスクマンとしてダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスらと抗争を展開していた。昭和58年8月にアントニオ猪木、藤波辰己ら新日本勢が遠征に来ると、コブラは小林邦昭と組んでスミス、ブルース・ハート組と対戦、華麗な空中殺法を披露、この模様はワールドプロレスリングでも放送されたが、高野も新日本が初代タイガーマスクの突然の引退で大揺れだったことを知る由はなかった。
元プロレスラーのコブラツイスト解説#shorts #プロレス ..
試合後、コブラはいつ以来の試合かと問われると「長い時間が経っていますね。確かゼロワンの福岡のボウリング場があるところ以来」と振り返り、2002年8月24日、ゼロワンの博多スターレーン大会以来、約16年ぶりの復活だったことを明かした。久々のリングに「尊敬する先輩みなさんのリングなんで私もとても光栄に感じております。これからの課題として、藤波さん、そして、ここのリングに参加する方々が努力してさらにお客さんをたくさん呼べる団体になっていただきたい。そのために私もできる限り先輩のお役に立てれば光栄かなと考えております」とレスラーとは思えない丁寧な口調で言葉をかみしめていた。
コブラ(著) 昭和期のプロレス入場テーマ曲を完全網羅した決定版
ファンの声援に「うれしかったですね。私はプロレスしかできない男ですから。すべて人生、プロレスにかけてきたんで。こうしてまた、藤波さんのリングで立たせてもらうこと、スタッフの皆さんに感謝しますし、先輩方はじめご来場のファンのみなさまにこの場を借りて御礼を申し上げたいと思っております。次の課題としてさらにご声援いただけるように、残り成長していい試合できるように頑張っていきたいと思います」と意気込み「課題は山積してますので、特に今の業界は以前の昭和プロレスの黄金時代のように、藤波さん、先輩方通じて時代をまた迎えられるように、みなさんで一丸となってがんばって、お互いの目標の課題をひとつひとつクリアして結果が出るように頑張っていきたいと思います」とまだまだ現役を続ける考えも披露していた。
ザ・コブラ THE COBRA 覆面 OJISAN製 新日本プロレス T
昭和58年11月3日蔵前国技館、初代タイガーマスクが引退に伴い、空位となったNWA世界ジュニアヘビー級王座を巡ってザ・コブラとザ・バンビートの間で王座決定戦が行われた。(この試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)
「P ザ コブラ」のアイデア 32 件 | コブラ, レスラー, プロレス
素顔に戻った高野だったが、新日本プロレスは高野を売り出そうとしなかったため中堅で燻るようになるも、それには理由があって高野はコブラ時代からプライベートで度々問題を起こしており、新日本プロレスも高野をトップレスラーとして扱うのには不適格と判断したからだった。新日本プロレスは武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋の闘魂三銃士を売り出すことになると、高野もさすがに居場所を失うが、そこで若松市政から誘いを受けてSWSへ移籍を決意するも、そもそもそれは最初は俊二に来た話で高野が横取りしてしまったのだ。
悲劇のマスクマン「ザ・コブラ」〜1983-86 新日本プロレス ジョージ高野
「にしたんクリニック」などを展開するエクスコムグローバル株式会社の代表取締役社長・西村誠司氏(54)が「東京スポーツ新聞社制定2024プロレス大賞supported byにしたんクリニック」授賞式に登壇。話題賞のプレゼンターも務め、受賞選手に祝福の言葉を寄せるなど大いに盛り上げた。 セレモニーを見守った西村氏は「(受賞者は)華がありました。普段はハードな試合をされている中でも、こういう年に1回のセレモニーって絶対に必要だと思うんです」と話した。 現在54歳の西村氏は、生まれ育った愛知県で〝プロレス最隆盛〟の時代を経験してきた。「子供同士でコブラツイストとかを掛け合ったりするのが普通だったよ。プロレス中継とドリフの時だけは遅くまで起きていて良かった。まだ小学生の時、愛知県体育館に新日本プロレスの大会を見に行ったんです。選手入場の時に、もみくちゃになってウチの弟の靴がなくなったの(笑い)」 実は、プロレスに触れるのはかなり久々だったという。改めて間近で見る男子選手の体格の良さに驚がくし、式典後の歓談タイムでは「最優秀タッグチーム賞(ベストタッグ)」を受賞した斉藤ブラザーズ(ジュン&レイ)を捕まえて、熱心に筋トレメニューを聞き出す一幕も。「なかなかあんな体にならないよね。〝実用的〟というか、簡単に壊れないような体というか…。あれだけ激しくぶつかっていくから、ケガをしないように鍛えているんでしょうね。相当厳しい練習を(積んでいるんだろう)と思います。邪念がなくて、本当にプロレスが好きで、真摯に頑張ってきたんだろうな」 一方、女子選手の話題では「女子プロレス大賞」に輝いたSareeeの名前を挙げた。実は西村氏、歓談タイムで〝太陽神〟からのエルボーを受けており「鉛のような重さがあった。本当にずっしりで…!」と大興奮だ。さらに「(話した時に)おっとりとして、ほわっとしてる感じだけど負けず嫌いさもあって、いい意味での強さを感じました」と〝推し選手〟に認定。話題賞を受賞したスターダムの岩谷麻優との戦いを見てみたいと目を輝かせた。 式典後、西村氏はともに出席したレジェンド・藤波辰爾と新日本プロレスの棚橋弘至社長を自身のロールスロイスに招いてTikTokを撮影するなど、名レスラーたちとの交流を楽しんだ。最後に西村氏がリングで闘う可能性を聞いてみると「すぐにケガしそうだよ」と爆笑。やっぱり可能性はないのか…と思いきや「最近なまってるから、どこかの道場に行って練習生から始めようかな。エキシビションマッチでデビューとかね」と仰天発言だ。そして「誰が対戦相手になるのかな。〝ドラゴン〟藤波辰爾かな?」とニヤリ。 もしかすると、来年のプロレス大賞の新人賞はこの人かも…?
この作品 「拷問コブラツイスト」 は 「女子プロレス」「オリジナル」 等のタグがつけられた「よねっち」さんのイラストです。
テレビ朝日系の人気バラエティー番組「」。
この番組では過去に数多くのプロレスにちなんだ企画が放映されてきた。
「ガンダム芸人VS越中詩郎芸人」
「昭和プロレス芸人」
「俺達のプロレス・オールスター戦」
「俺達のゴールデン・プロレス」
「女子プロレス芸人」
「今、プロレスが熱い芸人」
これらのプロレス企画の中で我々は久しぶりにあるプロレスラーの名前を聞くことになる。
くりぃむしちゅーの有田哲平さんは語り始める。
「昭和新日本プロレスのマスクマンと言えば誰ですかと言ったらタイガーマスクと皆言うだろうがほんとは違うんです…ザ・コブラなんです!!」
彼の名前が出た瞬間、会場はシーンとなった。
それは当然かもしれない、彼はタイガーマスクのようなスーパースターになり損ねた男。
彼の名はザ・コブラ。
有田さんはさらに語り続ける。
「タイガーマスクが引退した後に新日本が急きょ、"次のスター作れ!大至急作れ!"って作ったのがザ・コブラなんです。まぁ~売れなかった!(笑) デビュー戦ですよ。日本全国が次のマスクマンって思ってたデビュー戦のオンエアータイムがですね、なんと!例のですね!ダイジェスト放送っていうね。ぶっちゃけた話試合が全然面白くなかったんです。コブラ可哀想なんですよ。ほんとはコブラだけで3時間ぐらい語りたいんですよ。そうした時にUWFブームってのが来てさぁ。どうやってコブラが消えていくのかって言えばぁ、自然と次のシリーズから、何気なくジョージ高野が帰ってきたんですよ。マスク脱いで。普通に。引退とかどっかで風になったとかなんもなく」
ジョージ高野…この男の名を21世紀の全国地上波テレビで聞くことになるとは夢にも思わなかった。
そう、彼こそ哀愁のプロレスラーなのだ。
今回は、スーパースターになれる才能と身体能力がありながら、ブレイクできなかった男が歩んだレスラー人生を追う。
ジョージ高野は1958年6月23日福岡県北九州市に生まれ、山口県岩国市で育った。
本名は高野 讓治という。
弟は"人間バズーカ砲"と呼ばれたプロレスラー高野俊二(高野拳磁)である。
父は山口・岩国基地に所属していた米海軍中佐で、隊内でボクシング王者。
いわば彼はハーフだった。
だが、きっかけで少年時代は肌の色が違うと差別やイジメにあった。
そんなジョージには運動神経に恵まれていた。
中学時代は陸上のハイジャンプの選手として活躍し、持ち前のジャンプ力を磨いた。
中学卒業後、大相撲・大鵬部屋に入門する。
序二段まで進むも、関節炎の影響で廃業。
大相撲を去ったジョージが選んだ次の進路はプロレスだった。
1976年8月にアントニオ猪木率いる新日本プロレスに入門したジョージ。
ちなみにジョージは猪木との初対面の時に「俺が誰か分かるか?」と訊かれ、こう答えた。
「ストロング小林」
恐らくジョージはプロレスに疎く、プロレスラーになる道を選んだのはプロレスが好きではなく、生活手段だったのだ。
1977年2月10日、日本武道館大会で後に初代タイガーマスクとなる佐山聡戦でデビューを果たしたジョージはなんと15分時間切れ引き分けに持ち込んだ。
188cm,99kgの足が長く筋肉質な肉体。
甘いマスクに、運動神経、練習熱心な姿勢に新日本プロレスは未来のエース候補、スター候補としてジョージに期待をかけていた。彼には「褐色の貴公子」というニックネームがついていた。
特に運動神経は新日本プロレスに入門したレスラーの中でも随一のレベルだったと言われている。ジョージとは同学年で、1年後輩となる前田日明はこう証言する。
「あの頃のジョージは垂直跳びで90センチ跳んでましたから。あいつにドロップキックをやられると、上から突き刺してくる感じでしたよ」
だからこそ前田はこう断言する。
「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野である」
初代タイガーマスク、武藤敬司、小橋建太が得意技にしているムーンサルト・プレスはリング上で初披露したのはジョージだった。
また初代タイガーマスクが初披露した場外への側転してからのノータッチ・プランチャ「スペース・フライング・タイガー・ドロップ」の開発者はタイガーではなく、ジョージだったという。
「この技(スペース・フライング・タイガー・ドロップ)のアイデアは、私が最初にひらめいたのよ。自分でやりたかったけど、当時は佐山さんのタイガーマスクが大人気でダイナマイト・キッドともライバル関係だったから"ぜひ、この技を使ってください"と教えたわけ。側転してロープ際で平行になってプランチャをすればいいと」
その一方でジョージには情人とはかけ離れた言動や行動から「宇宙人」と呼ばれていた。
これについて近年、鈴木みのるがTwitter上で"ジョージ高野伝説"としていくつかのエピソードを披露したことがある。
・新人の頃「いくらUWFのやつらが強いって言ったってミサイル打てば勝てるだろ!」とオレに力説してたジョージさん。当時の愛読書は「ミサイルの造り方」。
・巡業のフェリー移動中。トローリングをやると言ってルアーをキャスト。釣れないとボヤく。そりゃそうだ…フェリーの速度に負けて空中をルアーがバタバタバタ
・昔、川崎の竹藪から1億円入りのカバンが見つかった事件があった。「よし、探しに行こう!」と本気で夜中に竹藪に行ったが見つからず。でも次の日、探しに行ったその竹藪からまたまた1億円入りバッグが見つかったとの報道。「ヨシッ!」と連日竹藪に入って行った
・「たまには肉でも食いに行くか!」と意気揚々と道場生を連れて出発。「好きなだけ肉食え!」と言って連れて行かれた先は吉野家。「大盛りに牛皿のせると超大盛り!」それ並二杯食えば良いんじゃない?最後に「牛皿は二皿までな…」
・「今日は暑いな…」と言ってボディビルダーが履くちっちゃいパンツ一丁でランニングへ行った…。数分後、新日道場の裏のコンビニで、そのまま立読みしてた。
ジョージは入門時から良くも悪くも型破りな男だった。
新弟子時代から猪木の付き人を務めていたジョージはデビュー前にテレビ朝日の特撮ドラマ「プロレスの星 アステカイザー」に出演した。
これが名俳優・菅原文太さんの目に留まり、芸能関係の道へ進んだこともあった。
「私が映画出演とか芸能関係にいったのは師匠の猪木さんの命令だった。石原プロダクションに入るという話もあったよ。でもプロレスで世界チャンピオンにもなっていない若造が石原裕次郎さん、菅原文太さんのところに飛び込むなんてできなかった。撮影が終わったら戻れると思うでしょ? それが映画の撮影が長引いて、プロレスの本隊と合流できなくなって。最終的には北沢幹之さんが仲介してくれて戻れたんだけどね」
1978年6月に新日本に戻ったジョージは前田日明、平田淳二(スーパー・ストロング・マシン)、ヒロ斎藤といった若手としのぎを削った。
1982年1月にジョージはメキシコ遠征に旅立った。
デビュー戦でいきなりフィッシュマンが保持するUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦する特別待遇を受ける。
「専門的に言えば、ルチャリブレは腕の取り方から何から日本のプロレスとはすべて逆だけど、私の場合は右脳と左脳の切り替えが早いからすぐに順応できた。だから、私は日本で体得したプロレスを二次的、三次的に加工しだしたの」
ジョージはメキシコでの活躍が認められ、長州力やアンドレ・ザ・ジャイアントを押しのけて、同年のUWA最優秀外国人選手賞に輝いた。
1983年7月にジョージはカナダ・カルガリーに渡り、マスクマン「ザ・コブラ」に変身する。
あの初代タイガーの後釜として新日本がニューヒーローを生み出したと思われているザ・コブラはカナダで誕生したヒール・マスクマンだった。ヒーローでもなんでもなかったのだ。
「メキシコにいた時点で、マスクを作ってね。デザインはミル・マスカラスやいろんな選手のマスクを見て、自分で考えたんだけど。ザ・コブラは国籍不明のヒールマスクマンだった。外国人は最初はみんなヒールだからね。ヒールで入っておいて、美しい技をいっぱい取り入れて試合をやれば、将来はベビーフェースにスイッチできるだろうと予測していた。ザ・コブラのスタイルは新日本のストロングスタイルとメキシコのルチャリブレのハイブリッドだったから。場外に出てイスでバンバン叩くとかはしないのよ。"ヒールだけど、美しい"みたいな。美しく悪いことをするという。レフェリーの目を盗んでノータッチで攻撃するとか、その間にフォールしちゃうとか」
1983年9月にはハート一家のブルース・ハートを破り、英連邦ミッドヘビー級王座を獲得し、ダイナマイト・キッドやデイビーボーイ・スミスとの抗争を繰り広げた。
「プロモーターのスチュ・ハートは、最初は胡散臭い奴と思ったかもしれないが、仕事ぶりを見てくれて凄く評価してくれて。私は外国人として初めてボーナスをもらった男だから。それは名誉だった」
《ビンテージ年代物》ザ・コブラ by OJISAN / 山崎製 #2
アントンの得意技。試合中に何らかの理由でヒザを負傷→「もう戦えない。最後に徹夜して考えた創作昔話を聞いてくれないか?」→創作昔話『ごんぎつね』披露→呆気に取られている内に影絵のキツネの形にした手でサミングを叩き込む…というもの。ちなみに創作昔話のオチは大概下ネタである
【ライガー道場】プロレス技は本当に痛いのか検証!コブラ、卍固め
カール・ゴッチ。Karl Gotch。 本名、Karl Istaz。プロレスラー。
2007年7月28日、「プロレスの神様」と呼ばれ、日本のプロレス界に強い影響を与えたカール・ゴッチさんが、大動脈瘤破裂のため死去。82歳。
1924年、ドイツ、ハンブルク生まれ。アマチュアレスリングで活躍し、「蛇の穴」の名で知られたイギリスのビリー・ライレー・ジムで関節技などを習得。59年にカール・クラウザーのリングネームでアメリカに進出した。実力派ではあったが、ショーマンシップに欠け、プロレスラーとしては不遇だった。61年に初来日し、レスリングの後ろそり投げをもとに編み出したジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)を披露。68年からは日本に長期滞在し、レスラーの技術指導にあたり、アントニオ猪木が立ち上げた新日本プロレスの旗揚げ戦に参戦。以後、フロリダの「ゴッチ道場」で藤波辰爾、前田日明、藤原喜明、元タイガーマスクの佐山聡らを育成。その後、UWF、藤原組の顧問となり、最近は無我ワールドの名誉顧問を務めるなど、日本のプロレス界の精神的支柱となっていた。