●川畑さんは、この『ダイナミック琉球』をどのような曲だと思っていますか?
建畠:これも誰が決めたか分かんないんですが、だいぶ前から、国際交流基金から、どこかでトリエンナーレかビエンナーレが出来ないかという話が出てはいたのよ。そういうテーマで、(国際交流基金に)矢口(國夫)がいる時代に国際シンポジウムをスパイラル(注:青山にある複合文化施設)でやったこともあります。それに僕は参加したことがあります。そしたら、具体的な可能性を考えましょうということを国際交流基金が言い始めて、僕と、本江と矢口と南條も入っていたかな。そういう人が4、5人集まって、研究会みたいなことを国際交流基金が主催してやったんです。それを半年か1年かやって、大蔵省に要請したら調査費がついたの。調査費がつくということは、もうやるということなのね。調査費がついて、それでやるかやらないかを決めるのが筋だけど、実際にはやるかやらないか決める場合には調査費もつかないのよ(笑)。ついたらもう脈があるの。中山さんっていう大蔵省出身の理事がいた。その後どこかの大使をやったのかな。拉致問題か何かで大臣か何かをやっている人なんですが。
ここでは、郷田さんがもたらすコブラの新たな魅力について詳しく探ります。
建畠:そうですね。僕が最初にインドネシアに行ったとき、インドネシアにキュビスムがあることを知ったのね。50年代の独立の前後の時期に。で、そのとき塩田くんがやったタイにもあることが分かったわけ。フィリピンにもあるって。で、インドに行ったときにインドにもあることが分かったのね。僕はこれは面白いテーマだと思ったの。アジアと言うと、誰もキュビスムを思い浮かべないでしょう。フォーヴィスムは分かるよ。シュールも分かる。フォーヴィスム、表現主義の伝統は前衛絵画の前からある。日本でも、岩佐又兵衛とかそういうものがある位置を占めている。キュビスムは完全な輸入文化でしょう。そういうものがアジアにとって積極的な意味があるとは思わなかった。日本でも、キュビスムは、フォーヴィスムあるいは表現主義に比べれば、それほど大きな影響を残していないし、定着もしなかったけれど、だからこそ重要だとふと気づいたわけ。つまり、ピンポイントで、入ってきた時期が特定できるわけ。終わったときも分かるのね。日本は、1910年代に数年遅れでシンクロしていて、中国もシンクロしていた。他のアジア、東南アジアやインドやスリランカは、それから、50年代に飛ぶわけですよ。独立前後の時期に。つまり、非常に特殊な入り方をしている。しかも、様式的な影響とか受容の時期が特定される。変容が非常に見やすいのね。だから、これは比較美術史的に非常に面白いテーマだなと思ったし、ポストコロニズム的な視点もそこに導入できると思ったので、科研費を請求しようと思ったのね。後小路(雅弘)さんとか一緒にやろうと思って、古市さんに話したんだと思う。そうしたら、古市さんが突然、来年展覧会やってくれと言ってきたのよ。そりゃないだろう、調査に3年はかかりますよって言ったら、古市さんは、科研費ではそんなに調査できないでしょう。国際交流基金では何回でも調査できるって言うのよ。しかも林(道郎)さんたちも入れて調査団を組んで行けば、現地の研究者とも全部交流できるって言うの。たしかに、科研費の3年より国際交流の半年のほうが効率的だなと思ったの。それで、まあ多少不承不承のところもあったんだけども、それならやりましょうと。ただ、僕は科研費のレヴェルで考えていたから、展覧会はあまり考えていなかったのね。そんなもの、絶対に面白くならないと思っていた。論文としては非常に面白いテーマになるけども、展覧会としては、「(そういうものも)ありましたね」みたいな話で、面白くないと思った。でも、展覧会じゃないと国際交流基金は組めないから、展覧会をした。国際巡回展覧会をして、海外の研究者を全部網羅するって言うんだけど、これは実際に実現しました。その後パリに持って行くというプロセスまで発展していった。テーマとしては、言い出しっぺだったんですが、みんなに言われたよね、「なぜキュビスムなの」って。後小路さんですら言っていた。僕はそれが理由だって言ったのよ。「必ず、何でキュビスムなのって返ってくる。だからやるんです」って言った。フォーヴィスムかシュールレアリスムでやったほうがはるかに分かりやすいんだけども、キュビスムっていう、誰もが、えって思うこと自体がやる理由だったんですね。僕は非常に大きな成果を挙げたと思います。
建畠:これは多摩美に来た後の話ですね。アジアセンター――もともと、アセアン文化センターというのが渋谷にあったんだけども、それが本体に移ってアジアセンターができたのね。ただ、このアジアセンターも最近なくなっちゃったんだけど――にいる古市(保子)さんという、非常にエネルギッシュなコーディネーターがいて、彼女から頼まれて、水沢(勉)さんと塩田純一と一緒にアジア近代美術の展覧会をやったんですね。僕はインドネシアをやって、水沢がフィリピンをやって、塩田くんがタイだったのかな。アジアセンターは、それまでたにあらたさんとか中村英樹さんが「美術前線北上」という展覧会をやったりしたんだけども、僕はそれで割と交流ができて、その後に立て続けに頼まれたのね。方力鈞という中国の絵画の展覧会をやって、その延長でインドを頼まれたんです。僕は別にインドの専門家だったとか、こちらからインド展をやりたいと持ち込んだわけではなくて、アジアセンターのカヴァーの範囲内だからインドの現代美術をやってくれないかって古市さんから頼まれたのがきっかけですね。僕は仏文出身だし、アジアは韓国以外は行ったことなかったのね。さっき言ったベネズエラも、ヨーロッパの運動を調べに行った。欧米、特にヨーロッパが多かったね。フランスはしょっちゅう行っていましたが、アメリカにたまに行くくらいで、アジアというのは念頭になかったのね。アジア美術ブームが起きたのは知っていたけども、アジア・トリエンナーレを見ても、そんなに関心を持たなかったのね。ただ、インドネシアのリサーチを何回もやっているうちに、だんだんアジアに、というか、古市さんに引きずり込まれました。だから、特にインドの現代美術を主体的にやろうと思っていたわけでは当時はなかった。でも、結果的には非常に勉強になったし、次の発想源にもなっていった。アジアのスペシャリストとまではいかないけども、アジアに比較的詳しいキュレーターになれたかな。国際交流基金のメリットは、機動力があって海外調査が潤沢にできることです。海外調査にキュレーターとして1人で行くって大変なんだよ、アポイントメントとるにしても何にしても。国際交流基金は現地事務所があって、古市さんのようなベテランがいるから、非常に機動力が発揮されるのね。欧米のような美術館を中心に動けるところはまだいいけど、東南アジアに行った場合、国際交流基金の仕事で行ったときの調査の効率は、たぶん我々が独立でやろうとしたときの数倍にはなるでしょうね。インド展に限りませんが、アジアの展覧会を立て続けに経験したことは、僕にとっては非常に価値のある経験でしたね。シンポジウムも含めてですけどね。
2012年12月31日 - 自身の体調不良を理由にCOBRAを再び活動休止[2]。 2015年 ..
建畠:そういう穿った見方ができなくもないでしょうね。今は評論家はいないからさ。ただ、美術館のキュレーターが大学に移ったときに必ずしも現代美術の専門家が移っているわけじゃないから、いろんなケースがあるでしょうね。ただ一般的に言えば、アメリカでも美術館と大学の相互交流というのはよくある話で、望ましいことだと思うんですよ。二者択一じゃないというのは。ただ、逆のケースはあまりないですね。大学から美術館に戻ってくるときは、大体館長ですよ。中村敬治さんみたいな特殊な例を除くと。館長で戻って来るというのは、専門職ではなくて行政職です。名誉職みたいなものでしょう。しかるべき大学の大物教授がどこかの美術館の館長に収まるというコースはあるようですが、キュレーターで来たという話はあまりないと思うのね。アメリカで言えば、キュレーターと教授は、まあ同格です。社会的な立場とか処遇とか。もちろん、美術館にもよるし大学にもよるから、一概には言えないかもしれないけども。日本は、キュレーターになった場合に、個室がないとか、秘書がいないとか、サバティカルもないとか、それから、国立の場合は出勤日や出勤時間はかなり自由だと思いますが、公立美術館では本当に9時から5時までいなさい、みたいなものがあるじゃない。展覧会を見るためにも出張伺いをして見に行くとか。そんなような状況だと、大学の先生は移りたがらないかもしれないね。日本の場合、海外のキュレーターとの交流もないじゃない。日本の美術館に来たらびっくりしますよ。学芸員の世界に個室の思想がないからね。国際美術館は今度サバティカルの制度を作ったんです。それは強引に作っちゃったんです。
美術館と大学の相互乗り入れというのは、自分もそうしてきたし、個人的には望ましいと思うんですが、今は美術館は冬の時代ですよね。まあ大学も冬の時代かもしれないけども(笑)。潰れかけた組織同士の交流というのは元気にならないですね(笑)。上昇するときには一緒に上がりましょうよというのはいいけど、どっちが早く潰れるか、みたいな感じかもしれないね(笑)。大学に行くのは、一般論としては悪いことだと思っていません。よく嘆く人がいるけども、いいと思いますよ。ただ、帰ってきても欲しいという感じだね。キュレーターとして。僕はキュレーター上がりだから、今も展覧会もやっていますけど、半分はマネジメント的な仕事もやらなくちゃいけない。そういう意味では美術館の学芸員の処遇をなんとかしたいなって思いますが、今からはもう何ともならないでしょうね。こういう悪い状況下では。潰れるか潰れないかという話なんだから、今は。
池上:美術館が現代美術に特化するような活動を始めて、現代美術が制度化したことが批評の役割の低下を結果的に招いたところがあると先ほどおっしゃっていましたが、その現象の帰結の一つということでしょうか。
ニューヨーク(芸人)を好きな理由|コブラ The Lion(墨田 ..
建畠:中山恭子さんが言い出しっぺなのよ。彼女が最初、万葉トリエンナーレはどうですか、まほろばトリエンナーレはどうですかって言うの(笑)。彼女の情熱で、準備会をやっているうちに、僕と南條がそのディレクターに指名された。その構成メンバーにはまだ河本さんが入ってなかったから、どういう段階で誰が決めたかは知らないですが、海外に強いという点では、ありうる人選でしょう。南條と僕と河本さんというのは。後もう1人いたんだよ。CCA(北九州)の中村信夫が。ようするに、日本のドメスティックな美術館の中では、国際的な状況の判断力がある程度期待できる。まあ無難な人選だと思いますね。1回目で、失敗はできないからね。ただ、1人にしたほうがいいという意見はあったかもしれないね。4人選ばれて、何で1人にしないかという話はよく聞いたけど、もう4人でいいんじゃないのって言ったのね。だって、この4人は、そういうことをやるような人たちなのよ。そうして順番にやっていると、4人がやると12年もかかるわけじゃん(笑)。それが一瞬に片付くんだよ。滞貨一掃セールで。一回で済ませれば便利じゃないかと(笑)。まあ、それは冗談ですけども。多分国際展の経験が豊富で、国際展の状況をよくおさえている無難な人選だったんでしょうね。自分が言うのも変だけど。詳しい理由は分かりません。誰が選んだかも知らないし。
建畠:いろんな理由があると思うんですけども、一つはそういうことなんでしょうね。現代美術が大学のシステムの中で専門的に研究できるような状況じゃないから、美術館の現場の人たちが即戦力になるということもあったでしょう。それから、今はどうか分かりませんが、大学の美術史学科の学生の就職先は美術館が多いから、そういう意味では、現場から人材を呼ぶという意味もあるでしょう。それから、さっきも言ったけど、評論家が大学の先生になるのはよくあったケースですよね。藤枝さんも峯村さんもそうだったし、東野さんも針生さんも中原さんもみんな大学の先生をやっていましたね。ところが、評論家は今はいないわけじゃない。そうすると、やはり学芸員のほうに目が向くということもあるでしょうね。
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しっかりとしたサイズの対比は出来ないがコロンと比べると大きい。
口調や言動を見るとコロンも幼く見えるがルフィとサンジと比べれば一目瞭然。成人人間よりも大分大きい。
コロンは巨人族の母リプリーと海賊として活躍していた人間の父の間に産まれた子供で巨人族のハーフといったところ。
「北極だ!南極だ!」と言い争っていますが、まさに喧嘩するほど仲が良い。最終的にどちらも同じ四皇と呼ばれるようになっていることから、まさに運命で繋がっていると言ってもいい。新四皇の伏線も考察していますが、果たして2人は味方になるのか?敵となるのか?
ファンが「コブラ会」スターが解散したと考える理由. 明日のためのあなたの星占い.
Q.ゴッドバレー事件の際に海賊達を迎え討とうとしていたガーリング聖ですが戦闘能力はどれくらいあるのでしょうか?
これは、どの切り口で語るかになります。 ①ロジャー海賊団が動かなかった理由②なぜ動かなかったか疑問に思う理由
休載中に挟まれた時代のうねり 尾田っち10の質問。
その中で単純ながらも興味深い内容があった。猛者感を漂わせて登場したガーリング聖についてのものだ。
きちんとした戦闘シーンはなく、無力に等しいミョスガルド聖と奴隷達に対する攻撃しか判明していない。とはいえ出てきたタイミングと関わる案件を見れば読者としては強い認識が先行する。
作者からもガーリング聖の強さにお墨付きがあった。
100年前(102年前)に2人のお頭ドリー、ブロギーがどちらが強いかを決する為に始めた闘いのせいで巨兵海賊団は解散に追いやられた。 ..
王下七武海がいつ作られたのかは不明ですが、昔もドフラミンゴのように闇取引をしている人物が七武海に在籍していたのでしょうか?
コブラ王の死亡理由はなぜ? コブラ王が死亡した後のアラバスタやビビの ..
建畠:どうでしょうね、今は日本中の大学にありますけども。プロデュース系は、東野さんの構想の三位一体の一つです。スタディー系、プロデュース系、ワーク系。ワーク系がなくなって、プロデュース系とスタディー系の2本になった。僕は広い意味のプロデュース系の要員だった。ちょうどスタディー系とプロデュース系の間くらいのところでした。具体的に言うと、キュレーター養成的なことを柱に掲げていた。その頃は、キュレーター花形時代だったから、新入生全部集めて、将来は何やりたいと聞くと、50人くらいいると40人くらいはキュレーターになりたいという時代でしたね。今は50人いたら手を挙げるのは数人かな、きっと。分かりませんけどね。この前、国際美術館で学芸員1人を募集したら、60何人か応募してきたから、まだやりたい人はいるのかもしれません。僕が多摩美にいる間でも、最後の頃は如実にキュレーター志望者が減っていましたね。だから、美術館の悪口というのはあまり外で言わない方がいいなと思った(笑)。
例えばルフィが山賊ヒグマに命を狙われたときには、「どんな理由があろうとおれは友達を傷つける奴は許さない!」 ..
建畠:石田英一郎さんが学園紛争の直前の時期に入ってきて、総合芸術大学構想を作るんですね。その頃芸術学科や建築学科がなかったこともあったけども。芸術学科も総合芸術大学構想の一つでした。人類学を中心にというわけじゃないけども、実技のワークショップ的なものと理論的なものとを有機的に結び付けるというヴィジョンでした。これはすばらしいヴィジョンでした。でも、石田栄一郎は癌で亡くなっちゃうんだよね、急に。石田さんは、もともと左翼で、逮捕歴もある人だったから、学生運動家たちの信頼感が厚かった。もうちょっと長生きしていれば、学園紛争も違っていただろうし、総合芸術大学構想もうまくいったのかもしれない。それはヴィジョンとして一応残っているわけですよ。ただそれを実現できるスケールを持った思想的な中軸がいなかったんでしょうね。中沢新一はそういったことも、少し託されているのかもしれない。
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建畠:僕は平出隆と一緒に入ったのね。峯村さんがいて、秋山邦晴さんが兼任でいたかな。萩原朔美、海老塚耕一。あと、村山(康男)さん。その体制でずっと続くんだよね。僕がやめる頃まで。東野さんが作った、プロデュースと研究と作家の三位一体という理想像は、東野さんのキャラクターでもっていたところがある。錚々たる人たち、李禹煥、宇佐美圭司、菅木志雄がいて、佐々木静一さんと東野さんがいた。東野さんの独特の人文主義みたいなものがうまく機能したと思うんだけども、そういうカリスマ的なオピニオン・リーダーがいなくなると、作家の部分が排除されていって——海老塚さんは残っているけど——、プロデュースと研究に特化していったという感じかな。それも最近僕がやめた後に急速に変わったけども。でも、中心の人は美術だった。美術史家、評論家、美学者が中枢にいたんだけども、僕がやめて、峯村さんがやめて、村山さんもやめて、その後に入ってきたのが、中沢新一(注:2011年、明治大学野生の科学研究所所長に就任)、折口研究者の安藤(礼二)さんでしょ。宗教学と民俗誌です。それから鶴岡真弓さんでしょ。これも純然たる美術史とは違うよね。がらっと変わっちゃったわけです。本江さんも関わっているけど、でも美術の専任の人って、本江と海老ちゃんくらいしかいないんじゃないかな。長谷川祐子さんがいるけど、彼女は兼任で来ているからね。そういう意味では、美術以外のところが非常に強力になってきた。芸術人類学研究所と芸術学科が相互乗り入れにみたいにしているから、兼担の先生も多い。今、客員教授なので、年に1回か2回行きますけど、状況はよく分かんないね。あまりにも激変したので。美学美術史学科的な性格はほとんどなくなってしまった。それはいいことか悪いことか、ちょっとよく分かりませんね。本江なんか困惑していますけどね。でも、新しい可能性に結びつけばいいと思います。
BOOWYが解散した理由については、こちらに詳しく書いています。 BOOWY ..
建畠:いたんです。村岡さんからではなく、別の美術教育系のアーティストから声がかかった。理論家が欲しいので来てくれないかって言われた。滋賀大も見に行ったんだけど、美術館の仕事も好きだったし、もう美術館で立ち腐れるんだ、一生って思ったの。田舎のローカルな美術館で。そういうロマンチシズムみたいなものがあって、美術館にいようって決めていた。他の美術館からも来ないかって話もあったけど、国際美術館が好きだったから、全部断っていたんだよ。だから、やめたいというのは全然なかったんだけども、ミニマル・アートの展覧会をやったときに李禹煥のところに作品を返しに行ったのね。尾野君がやった展覧会なんだけども、僕がサブの担当でもあったから。返しに行って、作品を降ろした後に、李さんが「もう自分は多摩美をやめる」って言う。芸術学科はもう作家がいないほうがいいって言う。東野さんの理想で、宇佐美圭司とか李禹煥とか菅木志雄がいたんだけど、作家は中途半端だって言うの、芸術学部に作家がいるのは。東野さんの三位一体の理想というのは、東野さんがいたからこそできるのであって、東野さんが病気で倒れていたから、中途半端なことはやめたほうがいいという話でした。僕も一方で、アカデミズムに対する憧れが多少あったのね。でも、もともとバックボーンが違うから、純然たる美術史よりは多摩美みたいなところが向くかなっていう気持ちがあった。で、李さんが大学に話をして、そうしたら大学も賛成したらしくて、来ないかって言われた。でも、迷いはありました。美術館の仕事が好きだったから。でもそのときに思ったのは、別に二者択一じゃないでしょうということです。行ったり来たりもいいんじゃないのって。実際に行って帰ってきちゃったから、行ったり来たりになったんだけどね(笑)。別にまた帰って来ようとか思ったわけじゃないんだよ。でも別に、大学か美術館か二者択一じゃなくてもいいんじゃないかという気持ちもあって、割と衝動的に決めてしまいましたね。具体的には、李さんと会ってそういう話になったということです。
コブラ効果(コブラこうか、英:Cobra effect)は、問題を解決 ..
→一方で同じ兄弟でも『兄弟分』という関係性もある。任侠映画などではこちらが一般的だろうか。先のエッグヘッド事件後のやり取りで関係性が明らかになったのが海軍大将ボルサリーノと海軍元帥のサカズキの兄弟関係。今や組織の中ではサカズキが上となったが2年前時点までは海軍大将として並んでいた。その頃を思わせる様なやり取りでサカズキもボルサリーノを決して下には見ていない。その証拠に事情も知らずに叱咤してしまった事を悔いて詫びている。サカズキのこの様なシーンは珍しい。
ポカスカジャン タマ伸也『ザ・コブラツイスターズ解散(長文)』
ヘテロダインの頭頂部にやって来たダイ・ガードとコクボウガー。だが、安保軍はOE兵器の投下準備を着々と進めてしまう。そんな中、遂にダイ・ガードはヘテロダインの内部に突入。そこで彼らを待ち受けるのは、なんとダイ・ガードの姿をした敵の本体だった!? そして、ついにOE兵器投下の宣告時間がやって来た…。
1991年 - COBRAを解散。 1992年 - 元COBRAのPONとハウスユニットCOW COWを結成 ..
加治屋:多摩美術大学に移られた話をしたいんですが、どういった経緯で移られたんでしょうか。
(Oi!) パンク・ロック (Punk Rock)バンド。 COBRA
建畠:カムバックみたいな感じだったね。その頃は、日本のアーティストというよりはニューヨークのアーティストという感じだった。「今、日本にいるの?」という反応がアメリカの人からも返ってきたね。だから、カムバックではあっても、日本のアーティストが評価されたということではなかったかもしれない。でも考えてみたら、ニューヨーク・スクールだってかなりの部分は外国人だよね、重要な作家は。
ジェシカ・ダイアモンド(Jessica Diamond)が草間の心酔者なのね。日本館にやってきて、オマージュを捧げるんだけど、草間さんは「何、この人?」みたいな顔していた(笑)。いろんな思い出がありますね。草間さんはすごいナーヴァスになってたのね。隣のドイツ館でナム・ジュン・パイク展をやってたんですが、僕はパイクは知っていたから、彼がいろいろアドヴァイスしてくれた。最初僕がヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーのやり方を教えてもらったのは、ハンス・ホラインです。ハンス・ホラインはずっとオーストリアのコミッショナーをやっていたから、コミッショナーの役割を教えてもらったりした。親切にアドヴァイスしてくれた。草間のときはパイクがいて、いつも来てくれるのよ。草間さんと親しいのね。草間さんもパイクは割と好きなんですね。パイクは、草間さんを抱きしめて「You are okay. You are okay.」って言ってくれたりして、すごく助かった。
日本館の建築は、吉阪隆正のモダニズム建築の一つのモニュメントとして位置づけられている建物です。遠藤、村岡のときに、真ん中の天井はふさいだのね。天井が吹き抜けで、床に手すりがあって真中が開いているわけですよ。下に雨が落ちるというコンセプトなんだけど、雨が降ると絵にかかるから塞いでしまう場合が多い。でも、下の手すりは残った。四方から壁が出ていて、その真ん中に手すりが居座っている。それを塞ごうとすると、トラバーチンでできている手すりをとらなきゃいけないわけだ。吉阪隆正の弟子たちが作っているU建築事務所っていうのが新宿にあって、その交渉に行ったの。遠藤も来てくれて、国際交流基金の人とU建築事務所に行ったら、入った途端、10人くらいの建築家にばーっと取り囲まれたのね。あの建築には指一本触れさせない、生きて帰れると思うな、みたいな感じだった。大げさに言えばね。外すんだったらトラバーチンをそっくりそのまま壊さないように抜いて日本に持って来てくれ、どこかのモニュメントに埋め込むからって言われた。で、業者に聞いたら、トラバーチンは欠けるから、そんなことはできないって言われたの。それで、それは残したままにしてその上に遠藤の巨大なシリンダーを被せた。草間さんのときは、《マイ・フラワー・ベッド》を置く台にしたのね。今はとっちゃったけど、非常に使いづらい構造でしたね。柱も使いづらいし、雨漏りもする。平屋根だからね。展示空間としては欠陥が多い。ヴェネチアの大学に博士課程にいる日本人で早稲田出身の人がいて、吉阪研とも関係あるだろうからというので、いろいろ頼んで、毎回あの上を吹き直すのね。防水加工をしてもらう。でも漏るのよ。「こんなのダメだよ」って言ったら、その建築家が「いや、これは壊せない」って言うのね。「じゃあどうしたら良いのか」って言ったら、「ガラス屋根の強大な建物を作って、全体をその中に埋めろ」って言うんだよ。立て替えの話はしょっちゅう出ていたんだけど、結局もう壊せないでしょうね。非常に使いづらいですが、それを騙し騙し使ったという感じですかね。今は手すりがとれたから、前よりは少し使い安くなったと思います。